今回の現地闘争にあたって、はじめて沖縄を訪れる学友もいることから、私たちはあらためて沖縄の歴史と現状を知るために、フィールドワークをおこなった。2日間にわたって、沖縄戦の戦跡や資料館、そして米軍基地を見てまわった。2日目からは、大阪でアジア共同行動日本連とともにたたかっている「新自由主義・国家主義と対決する学生・青年ネットワーク」の仲間と行動をともにした。
まず第一日目は、南部戦跡めぐりとして、ひめゆりの塔に到着。ひめゆり学徒隊が立てこもっていたガマ(洞窟)の上に記念碑が建てられている。隣接する記念館を見学した。ここでは、ひめゆり学徒隊だけなく当時の学徒隊の様子について知ることができる。力が入っているなと感じたのは、当時の教育はいかなるものだったか、の展示である。制服がスカートからズボンに変わったり、徒歩通学や質素倹約が勧められたり、体育に力が入れられていく様子。それらの背後に常に「天皇」―「国体」があった。学生たちは疎開することも許されず、沖縄戦に参加していくことになる。犠牲になった方々の遺影が、略歴と共に壁に並んでいる。皆、私たちより若い。生き残った人たちの当時の証言を読む。目の前で友人が「自決」したこと、負傷した兵士を置き去りにしたことなど、彼女たちのあまりに悲惨な体験が生々しく迫ってくる。
次に、近年新設された平和祈念資料館に向かう。入り口付近には、発見された米軍の不発弾が、発見されたままの状態で展示されていた。沖縄ではまだ、毎日のように不発弾が発見され、そのたびに付近の住民が避難している。

展示は、薩摩による琉球侵攻からはじまっており、戦後の米軍政下の民衆の生活や「復帰闘争」までたどっている。学術的なしっかりした展示ではあるが、旧資料館とくらべると、「肉声」が伝わってこず、「歴史のヒトコマ」としての印象を受けた。ただ、沖縄に来たらぜひ訪れるべきところだろう。
平和祈念資料館の向かい側、海に面した場所に、「平和の礎」が立っている。太田県政時代に作られたものだ。沖縄戦で犠牲になった、沖縄住民はもとより米軍、日本兵の名前も刻まれている。沖縄の住民にとっては、家族が離散し、どこで犠牲になったかもわからない状況の中で、部落ごとに名前がしっかり刻まれているのは、良い点かもしれない。じっさい、この日も献花に訪れた沖縄の人々がいた。しかし、当時、強制連行され犠牲になった朝鮮の遺族にとっては、加害者と共に名前が刻まれることに反対し、拒否する人もいたと聞く。ここにも日本軍(・人)の犯罪性があとをひいているのだ。

摩文仁の丘にもあがってみた。各都道府県が慰霊碑を建てているのだが、なんだが競争しているようにも、「お国自慢」しているようにも見えて、ひどく情けない思いがした。
次にバスで移動し、糸数壕(アブチラガマ)に到着。地上戦の際に住民と日本軍が逃げ込んだところである。照明が使えなかったため懐中電灯を使用した。全長は200メートルくらいだろうか。中に入ると、地上からは窺い知れないような広さがある。広めのところは野戦病院であるとか、死体安置所、軍の施設として利用されていた。住民は出口付近の急斜面に追いやられていたという。あたりまえのことであるが、光は一切入らない。当時、ガマの中は、人の体臭や排泄物のにおい、死臭に満ちていただろう。二酸化炭素が充満し、酸欠状態にもなったという。担ぎ込まれる日本兵にしても満足に歩ける状態ではなかったろう。ガマは鍾乳洞であるから、非常に滑りやすい。こういったところで、いつ終わるとも知れない砲撃に耐えるということについて、我々は想像することしかできないし、実際には想像することもできないのだろう。

2日目。読谷村を中心にまわる。まず、有名な「象の檻」見学だ。正式名称・楚辺通信所、ここには1997年、国が不法占拠した、知花昌一さんの土地がある。
楚辺通信所の役割は船舶情報の収集にあり、ここで集められた情報が近くのトリイ・キャンプに送信され、分析されることになっている。ところが、案内をしてくれた方によれば、通信所に駐留していた米軍情報部隊は2年前に解散しており、現在米軍関係者は常駐しておらず、ときおりメンテナンスにやって来るくらいで、ふだんは民間の警備会社が管理しているということである(我々が見学しているときも、警備会社の人が我々を監視していた)。つまり機能を停止しており、使われていないにも関わらず、返還しない。米軍は、返還の条件にキャンプ・ハンセンに代替施設を要求しているそうだ。ふざけた話だ。
次に、読谷村内にあるチビチリガマを見学した。「チビチリ」といは尻切れという意味で、傍を流れる水脈が海まで続いているからだという。チビチリガマは現在、ご遺族の意向で、奥のほうはブロックで閉じられ、入れないようになっている。私たちは中に入り、一分間黙想した。
以下、案内してくれた方の話をまとめよう。
読谷村は沖縄中部に位置しており、米軍の上陸地点の近くだった。そのため、チビチリガマはその日のうちに発見された。その日の晩、村人140数名がガマの中にいた。翌日、そのうち84名が「集団自決」をした。なぜ集団自決が行われたのか。ひとつには、教育の問題がある。「生きて虜囚の辱めを受けず」という軍人勅諭の精神が学校教育を通じて民間人にも徹底されていた。もうひとつ、中国大陸での戦争経験者の存在がある。米軍上陸の日、チビチリガマに避難した人の中に、従軍看護婦として中国に行ったことがある人がいた。その人は、中国で日本軍がしてきたことを見て、捕虜になれば米軍に日本軍がしたようなことをされると恐れ、自分と家族に薬剤を注射して「自決」した。これが発端となり「集団自決」となった。実の母親がこどもを殺害することも起きた。それでは、他の60名の方々はどうやって生き残ったのか。かれらは布団に火をつけて窒息死しようとしたが、あまりの苦しさに「外に出て撃たれた方がまし」と思い、ガマから出て、助かったのだった。このチビチリガマとは対照的に、シムクガマというところでは、ハワイに出稼ぎに行ったことがある村人が米軍と話し合いをしたために、隠れていた住民は全員助かったという。
このガマで起きたことは、あまりの悲惨さゆえに、村の人にタブー視されていた。1982年ごろになってようやく調査が行われ、87年には彫刻家の金城実氏によってガマ入り口に「平和の像」が作られた。しかし、沖縄国体での「日の丸」掲揚に抗議し、「日の丸」を燃やした知花昌一さんに対する報復として、右翼が「平和の像」を破壊すると言う暴挙を行った(95年に再建された)。

次に読谷村から移動して、米軍基地を見て回った。はじめに嘉手納基地である。
嘉手納基地の周りは、近年つくられた壁に遮られて、車道から中は見えなくなっている。米軍の言い分としては防音壁ということだが、その低さを考えれば(高ければ高いで問題だが)単なる基地隠しのように思える。この壁が作られたのは2000年のサミットの直前だそうだ。サミットの期間中、米軍は訓練を控えていた。世界の目から、沖縄の米軍基地の現状はこうして隠されたのだ。有名な「安保の見える丘」に立ち、だだ広い嘉手納基地を見渡した。いくつかの格納庫と戦闘機や巨大な輸送機らしいものが見える。ガイドの人の話によれば(他の団体の)、嘉手納基地は四組織(陸海空と海兵隊)が使用しており、しかも極東地域の修理本部が置かれているため重要性が増し、そのことで騒音被害もひどいそうだ。同時に、周辺の基地と一体的に運用されているため、基地の間を走る県道は実質的に米軍基地の一部として使用されている、とのこと。「軍事がすべてに優先する」有事法制が先取りされているのだ。
次に、普天間基地を見下ろす嘉数台地に行った。市外のどまんなかに基地が居座っているのがよくわかる。戦闘ヘリが数台、駐機していた。実際には飛んでいなかったが、騒音がとんでもないこと、絶えず事故の不安があることは、容易に想像できる。普天間基地が、まず無条件に撤去すべきだと声があがるのは当然だ。だが日米政府は、「代替施設ができなければ撤去しない」として、基地のたらいまわしを画策しているのだ。怒りがこみあげてきた。

今回見て回ったのは、沖縄の歴史と現状のほんの一部に過ぎない。だがこの一部を見ただけでも、常に沖縄が戦争と隣り合わせの状態であることがよくわかる。「本土」とアメリカから基地を押し付けられ、アジア侵略の拠点として維持されている沖縄の現実を変えるための具体的な行動こそが、私たちに突きつけられているのだ。